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2018/10/30 火曜 シェイクスピア 『マクベス』
 BBC制作のシェイクスピア戯曲のDVDにある『マクベス』を観た.『マクベス』はシェイクスピアの4大悲劇の1つであり,知名度が高い.ワタシ的には,『マクベス』はシェイクスピア作品の中で最も親しみがある作品である.
 『マクベス』への親しみがあるのは,黒澤の映画『蜘蛛巣城』による.実は『蜘蛛巣城』は,私が映画館で観た最初の映画だった.あくまで私の認識であり,記憶は人の中で遡って再構成されるから,実際にその通りかどうかは疑問の余地はあるとしても.
 私が1952年生まれで,『蜘蛛巣城』が公開されたのは1957年1月という.だから,私が映画館で最初に観たという記憶には矛盾はない.私が観たとすれば,故郷の家の近所にあった東宝の映画館である.ただ,怖くて画面を観ていられなかった.幽霊映画のようなものだったのである.だから筋は把握しなかった.その時に観たと覚えている場面は2つである.1つは老婆(魔女)が糸車を回している場面.もう1つは,山田五十鈴のマクベス夫人が,手をいくら洗っても血が落ちないと呻く場面である.最後の,三船敏郎が矢を射かけられる場面も,観ていれば印象に残りそうであるが,怖くて画面は観ていなかったかも知れない.

 今回のDVD作品(TV番組)については,BBC製作であるから,原作に忠実に作ってあるのだろうと思う.このシリーズでは,作品によっては通常のTV番組のスタジオ撮影のように作ってあるものもあるし,いかにも舞台をTV番組の載せたと思わせる作品もある.この『マクベス』は後者だろう.舞台用を思わせる簡単なセットを使っている場面が多い.同シリーズの他の作品と違うのは,Carl Davidによる音楽がこのシリーズとしては異例な,サスペンス調であることである.
 この作品の見どころは,時間の経過に伴ってマクベスとマクベス夫人の性格が変容して行く様だろう.最初,ダンカン王の武将として登場するマクベスは有能で誠実な人柄だった.王殺しは,マクベス自身は気が進まなかったが,気の強い夫人に促されて犯してしまう.しかし王になってからのマクベスはだんだんと悪事にのめり込み,それに伴って性格も暗く,最初とは別人のように変わる.逆に最初こそ果敢であったマクベス夫人は,次第に気の弱さが目立つようになり,重圧に負けて自滅して行くのである.マクベスのNicol Williamsonとマクベス夫人のJane Laptaireは,その変容をうまく演技で表していたように思う.

 この作品を観ながら私が一瞬不思議に感じたのは,ダンカン亡き後,マクベスがなぜに容易に王になれたか,である.有力な武将であれば宰相にはなれるかも知れないが,王になれるのか?
 実在のマクベスがどういう人か,Wikipedia(で悪いが)で調べてみた.近くの図書館にある程度のイギリス/スコットランド史の本では,個別の点をそれほど詳しくは書いていないのである.
 分かったのは,実在のマクベスはダンカンの従弟であり,年齢もそれほど違わなかったことである.だから王位継承権を持っているだろうし,王になるのが不思議とはいえなかったのである.
 この作品ではダンカンは老王として描かれる.しかしダンカンは1001-1040年の生涯であり,死んだのは40歳程度だった.スコットランドでの王としての在位は1034-1040年の7年間に過ぎない.一方マクベスは,4つ下で1005-1057年の生涯である.王としての在位期間は1040-1057年の17年間であり,戯曲では王になってすぐ殺されるように思えるが,実際は17年間という,当時としては長い在位を遂げている.マクベスは王として有能だった,ダンカンは失敗した,という解釈もある.むろん,マクベスがダンカンを殺して王になったこと,ダンカンの子のマルカムに戦いで破れ殺されたことは史実である.
 この作品では「夫人」と呼ばれ名前も出てこないマクベス夫人であるが,実在のそれらしい人は名をグロッホというらしく,実は少し前の王ケネス三世の孫娘であるらしい.だからマクベス,マクベス夫人とも血筋では王につながっており,王になること自体は途方もない野心という訳でもなかったのだろう.
 マクベスの時代は,イングランドではノルマン人の征服(1066年)の少し前である.ノルマン人の征服は,国内が騒乱状態にある上に外国の勢力が介入するという状況の中で偶々生じたことのように思う.実はスコットランドも似たような状態にあり,『マクベス』でも冒頭では内乱とノルウェイ王の介入があったことになっている.そういう騒乱状態の中で,血筋上も王に近い名門のマクベスが,王を倒して王位に就いた,というのが実際の所かも知れない.

 この作品を観ながら「あれ」と思ったのが最後の場面である.手許にある和訳本(松岡和子訳,ちくま文庫)では,マクダフがマクベスの首を持ってマルカムらの前に現れ,マルカムはこれから王になると宣言して劇は終わる.しかしこのDVD作品では,玉座近くでマクベスがマクダフに討たれて倒れている.マルカムが王になると宣言するところは同じなのであるが,そのマクダフより玉座に近いところになぜか,マクベスに殺されたバンクォーの息子フリーアンスが現れ,マクベスの死体,玉座,フリーアンスが画面に入ったところで劇が終了している.ここでフリーアンスを玉座の近くに置くという演出は何なのか?
 次のようなことかも知れない.『マクベス』が(たぶん宮廷で)初演された1606年は,エリザベス一世が1603年に死んでスコットランド王だったジェイムズが王位に就いた後である.スコットランドを舞台にする『マクベス』を作ったのも,そのジェイムズにヨイショするためだったらしい.ジェイムズの属するスチュアート朝の祖とされているのが,マクベスに殺されたバンクォーだからである.実はバンクォーの息子のフリーアンスも歴史ではマクベスに殺されるのであるが,フリーアンスの子供が血脈をつなぎ,マクベス物語の300年後にスコットランドでスチュアート朝が始まる.
 だからバンクォーの血筋を持ち上げるために,フリーアンスをマルカムより玉座に近い場所に置いて劇を終了する,というのは,初演当時はあり得た,だからこのBBCの作品でもそうしてみた,ということかも知れないなと思った.

by larghetto7 | 2018-10-30 17:52 | 日記風 | Comments(0)
2018/10/27 土曜 映画『雨のしのび逢い』をDVDで観る
 県立図書館でシェイクスピアのDVDと一緒に『雨のしのび逢い』のDVDを借りていた.このDVDだけ観ずに返却しようと思って昨日,県立図書館に行った.しかし昨日はイレギュラーな休館日だった.返却せずに帰ってきた.
 返却が1日遅れるので,せっかくだから『雨のしのび逢い』を観てみた.

 この映画の中で雨は降らない.原題は Moderato Cantabile なのに邦題がなぜ『雨のしのび逢い』になったのかは,まあ,いつものことだろう.
 ブルジョアの夫人アンヌ(ジャンヌ・モロー)と労働者階級の男ショーヴァン(ジャン=ポール・ベルモンド)の物語である.ジャンヌ・モローもジャン=ポール・ベルモンドも,私の記憶の中のイメージより若い.製作は1960年であるから,今から半世紀以上前になる.
 甘く切なくやるせない恋愛ものかと思ったが,そういう訳でもない.物語の冒頭,カフェ・ジロンド(Cafe de la Gironde)で殺人事件がおきる.物語はジロンド県(ボルドーがある)の小さな町でのことである.既に警察も来ているが,犯人の男は殺した女の遺体にすがりついて愛撫している.その光景を見る群衆の中にアンヌとショーヴァンがいた.この異様な光景がそれから始まるアンヌとショーヴァンの7日間の恋を導くのである.
 カフェ・ジロンドは労働者階級の男が集まる店である.そこでアンヌとショーヴァンはしばしば逢う.最後に,夜半,アンヌとショーヴァンは客のいないカフェ・ジロンドで逢う.ショーヴァンはアンヌに「あなたには死んでほしい」といって去ってゆく.アンヌは,殺された女がそうであったように,その場に崩れ落ち,悲鳴を2度あげるのである.そして最後の,地味な結末がある.ジャン=ポール・ベルモンドもよいが,やはりジャンヌ・モローを観る映画である.
 この映画が何を意味するかは私には理解し切れない.原作は女流作家のMarguerite Durasが書いた小説であり,Duras自身も脚本に加わっている.
 モノクロで映し出される陰影や風景が美しい.

 どうでもよいが,カフェ・ジロンドの女主人を結構な美人女優が演じている.調べるとPascale de Boysson という女優で,既に亡くなっているけれど有名な女優さんであるようだ.

by larghetto7 | 2018-10-27 15:12 | 日記風 | Comments(0)
2018/10/25 木曜 シェイクスピア 『終わりよければすべてよし』
 BBC制作のシェイクスピア戯曲のDVDシリーズのうち,『終わりよければすべてよし』を観た.この作品は,分類としては喜劇である.DVDのケースには,この作品は英アカデミー賞を受賞したという.観てみたところ確かによく出来ていて,観終わったときには感動した.
 筋をやや詳しく書いておこう.舞台はフランス,時代はよく分からないが,服装からするとシェイクスピアと同時代なのだろう.主人公はロシリオン伯爵お抱えの医師の娘のヘレナである.医師の親父さんが亡くなって半年くらいの時点から話が始まる.ヘレナは孤児であるが,前ロシリオン公爵夫人に我が子のようにかわいがられている.ロシリオン伯爵位は息子のバートラムが継いでいる.ヘレナはそのバートラムに密かに恋をしている.何とかバートラムと結婚するために,瀕死の病にかかっているフランス王を治療することを願い出る.この治療は成功し,喜んだフランス王はヘレナに好きな相手と結婚させるという.そこでヘレナはバートラムを指名する.
 この指名を(前)公爵夫人は喜ぶが,バートラム本人は反発し,ヘレナを嫌い,形だけ結婚したことにしてフローレンスに出陣してしまう.バートラムはヘレナに,「家伝の指輪を手に入れて自分の子を宿したなら結婚する」と言い残す.ヘレナも家出して巡礼の旅に出て,巡礼先で死んだことになる.
 バートラムはフローレンス出陣から戻る直前に当地の娘ダイアナにいい寄る.が,ダイアナとヘレナは知り合っており,ヘレナはダイアナに策を授けるのである.ダイアナはバートラムに指輪の交換を求めて成功する.そしてセックスさせるといって,ベッドの中でヘレナと入れ替わるのである.
 最後の場面はロシリオン邸で,王を含めて一同が会する状況で,ダイアナがバートラムの不実を訴える.そこで死んだはずのヘレナが現れ,バートラムの指輪を得て彼の子供を身ごもったと明かすのである.バートラムもヘレナとの結婚を受け入れて大団円で終わる.

 この作品で感心するのは,主要な登場人物が全員,有名な俳優であり,しかも見事な演技をしている(ように見える)ことである.バートラムを演じたのは,この作品の製作と同時期に公開されたあの『炎のランナー』(Chariots of Fire)で,スコットランドの宣教師エリック(400m走で金メダルを取る)を感動的に演じた Ian Charlesonだった.伯爵夫人のCelia Johnson,フランス王のDonald Sinden,ヘレナを理解する老貴族ラフューに『リア王』と『テンペスト』で主演したMichael Hordern,ダイアナが『テンペスト』でミランダを演じたPippa Guard,バートラムの同僚貴族デュメーンに『から騒ぎ』のベネディクトなどを演じたRobert Lindsay,などである.特にフランス王は他を圧する迫力がある.

 しかしこの作品は上演機会がほとんどなかった作品という.いくつかケチがつくところがあるかららしい.Wikipedia(で悪いが)によると,ヘレナのような身分の低い者との結婚を王や貴族が支持するのは不自然であること,ヘレナはよいがバートラムは好きでもない,身分も低い相手と結婚させらえるのはハッピィな終わり方ではないだろう,結婚してもうまくゆくとも思えない,といったことである.
 たぶんそうした問題をクリアするように演出がなされたのではないかと想像する.この話は大まかにはヘレナの成功物語である.身分が低いヘレナが王の治療とバートラムが課した結婚の条件という2つのハードルを見事クリアし,バートラム伯爵との結婚を実現する.そのヘレナを野心的なヤッピィのようにギラギラ描いてしまうと興ざめになる.だからヘレナは終始抑えたふるまいをする者として描かれる.フランス王は結婚を強いるほどの強い,帝王的なキャラとして描かれる.画面も抑えた色調であり,音楽も同様である.考えた演出なのだろう.最後にヘレナがすべてうまくやったところで,私もヘレナの側に立ってよかったと思った.いろいろ問題はあるのだろうが,最後に観客の共感を得ればそれでよいではないか.まさに「終わりよければすべてよし」なのである.「終わりよければすべてよし」は,最後にオシリオン邸に向かうヘレナがその趣旨のことを口にする.そして同じ趣旨の言葉をフランス王が述べてこの劇が終了する.結果が良ければ過去はbitterでもSweetな未来が見通せる,と.
 ちなみに,であるが,社会心理学のテキストには,認知の所で Stony Past, Golden Future という言葉が出て来ることがある.過去はつらいものに,未来は明るいものに映る,という認知的なバイアスが人にはあるというのである.このバイアスは,未来を楽観的に考えた方が結果がよい(進化的には,楽観的な方が適応度が高い)ことによるとするのが,1つの考えである.

 なお,この作品では,主たる筋と並行して卑怯者のぺーローレスの物語が進行する.ぺーローレスはその卑怯さがばれ,バートラムらの信頼をすべて失って追放され零落する.しかし最後のオシリオン邸の場面で乞食のようになって現れ,ラフューから捨扶持をもらえることになり,最後のヘレナの勝利にも若干貢献する.嫌われ役のぺーローレスにも救いを与えるのがこの作品である.落ちぶれてもたくましく生きてゆくぺーローレスはある意味立派なのかも知れない.

by larghetto7 | 2018-10-25 18:34 | 日記風 | Comments(0)
2018/10/21 日曜 シェイクスピア 『ウィンザーの陽気な女房たち』
 BBCのシェイクスピア戯曲のDVDシリーズの『ウィンザーの陽気な女房たち』を,県立図書館から借りてきて観た.この作品は,題から分かる通り喜劇である.ざっと流して観るつもりだったが,思いのほか面白かった.

 ウィンザーはウィンザー城で名を知られる.調べるとロンドン中心街の西34kmというから,ロンドン近郊といってよいのだろう.陽気な女房とは,ウィンザーの紳士階級のペイジ家とフォード家の夫人である.主役になるのはフォルスタッフという,サーの爵位を持つがならず者同様の老体で,劇中ではしばしばサー・ジョンと呼ばれる.フォルスタッフは『ヘンリー四世』で出てきた人気キャラで,エリザベス女王が気に入って,現代(当時)の時代設定で登場することになったらしい.
 この作品では2つのストーリーが並走する.1つは,フォルスタッフがペイジ夫人とフォード夫人に同時に同じ文面の恋文を書き,ねんごろになって金を巻き上げようと画策する.女房たち,つまりペイジ夫人とフォード夫人はフォルスタッフの意図を見抜き,話に乗るように見せて,フォルスタッフを散々に懲らしめる,というドタバタ劇である.もう1つのストーリーはペイジ夫妻の娘のアンの結婚話である.アンには裕福な紳士スレンダー,フランス人医師で宮廷にも出入りするカイアスが求婚している.ペイジの旦那はアンをスレンダーと,ペイジ夫人はカイアスと結婚させたい.が,アンは,身分はあるが金のないフェントンと恋仲である,という状況である.
 この2つのストーリーは最後の場面で合流する.最後の場面では,フォード夫人がフォルスタッフを夜中,ウィンザーの森のオークの木の下に呼び出す.その森のオークの木とは伝説の場所であり,狩人ハーンという幽霊が出るという言い伝えがある.そこに出向いたフォールスタッフは妖精たちに化けた登場人物たちに脅され,いじめられる.が,その騒ぎの中でアンはフェントンとその場を抜け出して結婚してしまうのである.最後は大団円となり,お互いのわだかまりを許し合い,フォルスタッフを含め,みんなで談笑するためにペイジ家に向かうという場面で終わる.この最後の場面は画面として美しく,『夏の夜の夢』を思わせる.
 これまで観たシェイクスピア喜劇の中でも,私にはこの作品は特に魅力的である.この作品には悪人は出てこない.皆が善意の人である.ずるいことを考える者もいるが,みな懲らしめられ,最後は円満に終わるのである.

 主役はやはりフォルスタッフなのだろう.私は,このフォルスタッフというキャラがなぜ人気があるか理解できなかった.フォルスタッフは,時代設定としてはこの作品ができるより200年近く前の,ヘンリー四世の物語に出て来る.先述のように,おそらくエリザベス女王が望んだので,このキャラを「現代劇」の中に呼び込んだのである.今回この作品を観てみると,要するに落語の与太郎とか熊五郎のように,喜劇ストーリーの中に常に登場するダメな奴,という設定で人気があるのだろう,と思えてきた.フォルスタッフの手下も同じメンバーで登場する.バードルフ,ピストル,ニムである.
 さらに,この作品では重要な役割を演じるクイックリー夫人というのは,『ヘンリー四世』,『ヘンリー五世』に出て来る,フォールスタッフ行きつけの居酒屋ボアーズヘッド亭の女将であり,『ウィンザーの陽気な女房たち』では医師カイアスの使用人として登場している.『ヘンリー五世』ではピストルがクイックリー夫人を妻にするのであるが,この2人がねんごろになるところも『ウィンザー』で描かれるという,芸の細かさが示されている.なお,バードルフ役のGordon Gostelowは,前作と同様に一貫してバードルフ役で出ている.バードルフ役は彼しかいないと,解説書には書いてあった.

 この作品で名演技が目立つのは,フォード氏(旦那)を演じた Ben Kingsley である.フォード氏は妻が浮気をしていると疑い,いろいろと動き回り,喜劇的に大騒ぎを演じる.Ben Kingsley はインド系の俳優だそうで,『ガンジー』という映画ではガンジーその人を演じている.また,クイックリー夫人のElizabeth Spriggsも大したものである.カイアスの使用人でありながらいろんな人の使いをこなし,最後は妖精の女王役までやってしまう.
 目立たない役であるが,スレンダーの召使というちょい役で,『リチャード三世』で主演したRon Cookが出ていたのも面白い.

by larghetto7 | 2018-10-21 19:13 | 日記風 | Comments(0)
2018/10/16 火曜 シェイクスピア 『尺には尺を』
 県立図書館から借りたBBCのシェイクスピアのDVDシリーズの『尺から尺を』を観た.この作品は「喜劇」に入る.しかしシェイクスピア劇の常として,悲劇になるか喜劇になるかは紙一重の展開の差である.ストーリーそのものはかなり深刻に進む.
 この作品の題名『尺には尺を』(Measure for Measure)の意味が事前に気になった.たぶん目には目を,歯には歯を,tit for tat といった意味であろうと予想した.作品を観たところ,大まかには当たっている.が,正確にはやや異なる.目には目をは結果の公正性を指す.ここで「尺」(measure)とは基準といった意味らしく,「尺には尺を」は新約聖書の表現によるという.つまりあることに基準を適用すれば同じ出来事には同じ基準を適用しろ,という,方法上の公平性を指している.むろん,適用すべき行為が同じであれば,同じ基準を使えば結果の公平性も含意される.

 この作品,たとえていえば「遠山の金さん」,「水戸黄門」,「暴れん坊将軍」のシェイクスピア版だと思えばよい.ウィーンの公爵のヴィンセンシオがお忍びで旅に出ると言い出す.その間の公爵代行にアンジェロを任命するのである.アンジェロは全権を委任される.アンジェロは厳格な人で,19年前から適用がなかった旧法を復活させ,クロ―ディオを,恋人(ジュリエット)を婚前に妊娠させた罪で逮捕し,死刑にしようとする.クローディオの妹で修道女見習のイザベラがアンジェロに,クローディオの命乞いをする.ところがアンジェロはイザベラを見初めてしまい,平たくいうとセックスさせれば兄を死刑にしないでやると持ち掛ける.だから,クローディオに適用した基準をアンジェロにも適用すれば,アンジェロも罪になる,というのが「尺には尺を」なのである.
 で,何が遠山の金さんかというと,旅に出たはずの公爵ヴィンセンシオは実はウィーンに留まり,旅の修道士のふりをして世情を眺めるのである.そして,クローディオの死刑の件でイザベラが悩んでいることを知るという,うま過ぎる展開になる.ヴィンセンシオは修道士を名乗りつつ,イザベラを助け,クローディオが死刑にならないように策をイザベラらに与える.
 最後の場面で公開の場でアンジェロに対するイザベラの訴えがある.話はもっと複雑であるが,簡単にいえば,アンジェロの非難はすべて修道士が仕組んだ悪だくみであり,その修道士を連れて来いということになる.その修道士,実は公爵その人だ,と身分を明かし,ここにすべての悪事は露見して,めでたしの決着になるのである.
 日本の時代劇の遠山の金さんスタイルはどこまで遡るか分からないが,日本の時代劇が始まるずっと前からシェイクスピアがやっていたというのは,感慨深いものがある.
 題名が作品のメッセージである点は分かりやすい.いい方を変えれば,為政者たる者,ダブルスタンダードはダメよ,ということである.

 という物語であるが,中身についてはツッコミどころは多いように思う.だいたい,お忍びで世情を見たいなら何も旅に出たことにする必要はない.遠山の金さんも暴れん坊将軍も,奉行や将軍の代行などは立てないだろう.それに,その代行を選んだおめえには任命責任があるだろう,という話である.人助けをするなら,面倒な芝居など打たずにアンジェロの前に出て決済すれば済む話である.しかもこの審判を,劇を面白くするためとはいえ,公衆の面前でやることもないだろう.アンジェロも結局救われるのであるが,公衆の面前で芝居を打ったものだから,アンジェロの面目は丸潰れではないか.しかも,最後に公爵は自分が助けたイザベラと結婚する,うーん,そりゃないだろう.
 とまあ,ストーリーには納得できない点があるが,そこはシェイクスピア劇の常である.なかなか派手に楽しめる作品だ,とポジティヴに考えるべきなのだろう.
 
 この作品,ウィーンが舞台であるが,特にウィーンらしいところがあるのか,分からない.ウィーンが舞台であるのに人名はイタリアか地中海風である.はっきりいって舞台はどこでも良かったのだろう.

 この作品で同シリーズ37作品中,28作品を私は観たことになる.ここまで来ると早く全37作品を観たい気持ちになる.

by larghetto7 | 2018-10-16 19:01 | 日記風 | Comments(0)
2018/10/12 金曜 シェイクスピア『トロイラスとクレシダ』
 BBCのシェイクスピアのDVDシリーズの『トロイラスとクレシダ』を県立図書館から借りてきて観てみた.この作品は20世紀に至るまで上演実績がほとんどなかったらしい.
 『トロイラスとクレシダ』の時代背景はトロイ戦争の物語の終わりの頃である.トロイの勇者ヘクターがギリシャ側のアキリーズ(アキレス)に殺され,トロイ側が意気消沈するところで終わる.その間のギリシャ側とトロイの戦闘,および,ヘクターの弟のトロイラスとクレシダとの恋愛関係で話が進む.映画『トロイ』を(TVで)観ていたので,話の見当がついて助かった.

 この作品は,BBCの解説書では「喜劇」と表示されていた.しかしネットで調べると「悲劇」である.主人公が死なない点は通常の「悲劇」とは異なる.が,終わり方は暗い.観た後の感想では悲劇でよいと思う.観れば気分はかなり落ち込む.英語版のWikipediaは,この作品を black と表現している.
 何が black か.いろいろあるのであるが,大きな出来事の第1は,永遠の愛を誓っていたクレシダの不義である.いろいろ事情はあるものの,クレシダが他の男(ギリシャの将軍)になびいてしまい,その様を見ていたトロイラスが戦場で復讐の鬼と化す.シェイクスピア作品で主人公並みの女性が不義に走るのは思い当らない.第2はアキリーズが卑劣なことである.映画『トロイ』ではアキリーズとヘクターは正々堂々と戦った上でアキリーズがヘクターを倒す.しかしこの作品ではそうではない.アキリーズは,戦いでヘクターが武装を解いたのを見計らい部下にヘクターを取り囲ませなぶり殺しにさせる.そして自分の手柄にするのである.通常は美しく描かれる恋愛やヒロイズムが,この作品では black に描かれる.

 『トロイラスとクレシダ』のもともとのネタはギリシャ神話を題材とした『イーリアス』であるが,『トロイラスとクレシダ』自体は14世紀イングランドのチョーサーの作らしく,その他の作品を交えてネタ本にしたようである.このDVDでは,登場人物の服装はエリザベス朝の前後のようであり,元来のトロイ戦争のようには見えない.

 主人公のトロイラスを演じるのは同シリーズの『リア王』でエドガーを演じたAnton Lesserであり,トロイラスとクレシダの取持ちをするクレシダの叔父パンダラスを『ジュリアス・シーザー』でシーザーを演じたCharls Gray が演じていた.主役のAnton Lesserもシェイクスピア劇らしい演技をしていたと思うが,演技で際立つ俳優が他に2人いる.何れも特徴的な面相で,一人はパンダラスのCharls Grayである.このパンダラスがこの劇の進行の役割も果たす.もう一人がギリシャの口汚い兵士サーサイティーズ(THERSITES)を演じた The Incredible Orlando こと Jack Birketである.彼は著名なダンサーらしい.このDVDを観れば自ずとこの2人が目につく.

by larghetto7 | 2018-10-12 23:28 | 日記風 | Comments(0)
2018/10/08 月曜 LGBT杉田論文
 「LGBT杉田論文」が世間でよく取り上げられる.その論文がどんな内容かと興味を覚える.が,本文を見るのが不可能ではないが困難であり,見ないままだった.先日,ネットを見ていたら本文を手打ちで入力して表示たらしいサイトが2つあった.手打ちであるからミスもあるかも知れないが,2サイト間で差はなく,大きなミスはないだろう,と考えて,その本文を読んでみた.
 予め私の結論を述べれば,次の2点である.
1.この「論文」は文の構造ができていない.その点が批判を招く一因になっている.
2.著者の立場に立てば,この論文の本来の結論は次の点になるべきだろう:普通の結婚を支持する主流文化の維持が社会の存続のためには必要である.メディアはその点をもっと認識してよい.

1.文章の構造ができていない

 読んで気づいたことは,内容以前に,文の構造ができていないことである.当然,「論文」とはいえない.念のため,この「論文」の各段落に私が作ったトピックセンテンスを当てて全体を表せば,次のごとくである.

1 LGBTの新聞記事が多い.
2 朝日新聞の影響が大きい.
3 報道の背後にあるのはLGBTの人の生きづらさを解消しようとすること.
4 しかし差別は小さい.
5 日本にはキリスト教社会のような同性愛迫害の歴史がない.
6 日本のマスメディアは欧米の論調を受け入れた結果である.
7 当事者は親の理解が得にくいことを悩んでいる.
8 親の理解が得られれば生きやすくなる.制度の問題ではない.
9 制度,行政を動かすことは税金を使うことを意味する.
10 子育て支援は政策的に税金を使う名分があるが,LGBT支援には子育て支援のような政策的な名分がない.
[小見出し LGBとTを一緒にするな]
11 LGBTのうちTは性同一性障害によるので,支援の考慮対象になる.
12 LGBは嗜好の問題である.LGBの持ち上げは不幸な人を増やすことになりかねない.
13 (三重県の調査で)性的志向が曖昧な回答者が多いのはLGB持ち上げの結果を表すだろう.
14 学校制服のLGBT対応.トイレ使用では混乱しかねない.
15 オバマ政権によるTのトイレ・更衣室の使用措置は米国で混乱をもたらした.
16 その混乱は今も続いている.
17 LGBTにQ,I,Pなどが加わると訳が分からなくなる.
18 性別の種類が増えて冗談のようになっている国もある.
19 多様性を受け入れると結婚制度の崩壊に歯止めがかからない.
20 LGBT報道には抑制が働いてよい.
21 「常識」や「普通であること」を見失うのは問題だ.

 このままでは「論文」全体が意味をなさないと私は思う.
 第1に文章が構造化されていない.論をなすというためには結論を支持する根拠が分かるように書かないといけない.しかしこの「論文」では「結論-根拠」の構造が分かりにくい.
 例えば,批判的によく取り上げられるのは段落10である.LGBTは生産しない(子供を産まない)から税金を使う対象にならない,と受け取られた箇所である.
 この箇所は(中身の是非は別にして)次のような理屈で成り立つはずと思う.

税金による公的支援は次の考えにしたがう.
(1)困っている人は公的支援の対象になる.
(2)政策目標(少子化対策など)に合う場合は支援に上積みがあり得る.
LGBTについては,
(1')L以外はさほど困っていない.(段落4-8,11)
(2')公的支援が政策目標に合うとは考えにくい.(段落12)
したがって,L以外は,大がかりな公的支援をすることは考えにくい.(段落12)

 上記のような「結論-根拠」の構造が分かるように書けば意味が通じる.しかしこの本文(段落7-11)は文章が構造化されていないのである.(2)だけで「支援の対象にならない」と結論づけるように受け取られる点が批判を呼んだ面があると思う.
 第2に,この「論文」は結論が不明確である.上で例示した「L以外は,大がかりな公的支援をすることは考えにくい.」は結論らしい部分である.がこの部分が12段落以降とどのようにかかわるのかは,よく分からない.
 結論が分かりにくい理由の1つは,この「論文」が批判のセンテンスばかりを連ねている点である.批判するには「望ましい何か」があるはずである.その積極的な「何か」を結論として示さないと批判の意味も理解しにくい.批判ばかりの野党が意味不明になるのと同じ構造がこの「論文」で起きている.
 今述べた第1,第2の問題によって,この「論文」はまとまりのない「LGBT批判」のセンテンスを並べた文書という印象になる.この「論文」を擁護する人の中には「全体を読めば分かる」という人もいる.が,全体を読んでも今のままでは全体が分からない.だから,この「論文」を批評する人は,結局,部分を取り上げて論評する以外になくなるのである.「LGBT批判」センテンスが並ぶ結果,「LGBTヘイト」の「論文」と受け取られるのは仕方ない面がある.
 善意に解すれば,この「論文」は起承転結のスタイルで書こうとしたのかも知れない.しかし起承転結は漢詩の文学的形式であり,論理的な文書の形式ではない.起承転結形式は「結論-根拠」を示すことに向いていない.

2.この「論文」の本来の結論

 「LGBT杉田論文」の結論(主張)は本来何なのか,を考えてみた.可能性はいろいろあり得る.その可能性を逐一あげてゆくと冗長な話になるので,もっともありそうな推論をしてみたい.この文章は起承転結で構成されたとすれば,最後の段落(21)が結論である可能性が高い.仮にそうだとして話を進めよう.
 段落21の主張をよりポジティヴに(私の言葉で)表現すれば,「普通の結婚を支持する主流(Mainstream)文化の維持は社会の存続にとって必要である」になるだろう.論のアウトラインを示せば次のようなものになると思う.

結論:普通の結婚を支持する主流(Mainstream)文化の維持は社会の存続にとって必要である.
根拠:社会の維持は次世代を「生産」し育てることにかかっている.その結果に導く行動様式が主流文化として存在する.
結論の含意
・多文化共生の社会ではLGBTの文化は下位文化として主流文化と共存すべきであるが,主流文化が衰退したら社会は消滅に向かう.LBGT文化(の社会)の存続は子を産む主流文化(の社会)に依存している.主流文化が消滅したら元も子もない.
・メディアも次世代を「生産」し育てる価値の重要性を認識すべきである.

 元の論文にある論点,例えば「L以外は,大がかりな公的支援をすることは考えにくい.」などは,入れるとすれば,上記のアウトラインの中に関連する事項として入れ込むのであろう.


 「LGBT杉田論文」を文章の面だけで見てきた.内容面でいうと,基本的な結論を維持するとしても,何点かリサーチを経ないと主張できない箇所も目に付く.例えば,(朝日などの)新聞がLGBTを称賛していることを前提とした記載になっているが,本当にそうかどうかは新聞記事の内容分析を経ないと何ともいえない.また,どうしてもチャチを入れたくなるような箇所も少なくない.例えば制服がLBGT配慮というけれど(確かにその学校ではそのように説明してはいるが),その実態は女生徒にもスラックスを認めることのように思える.女生徒のスラックスは結構なことであり,何も問題ないように思える.

by larghetto7 | 2018-10-08 22:51 | 日記風 | Comments(0)
2018/10/04 木曜 シェイクスピア 『リア王』
 BBCのシェイクスピアのDVDシリーズの『リア王』を,『オセロー』と一緒に借りていた.返却期限が近づいたので急いで観た. 
 同シリーズの作品を,このところシリーズでの順番に従って借りて観ていた.実は順番通りであれば『オセロー』,『リア王』の前に喜劇が4作品続くのである.しかしその4作品は偶然にも誰かが借り出していた.正直,4大悲劇の『オセロー』と『リア王』という大作を続けて観るのは気が重い.間に喜劇を挟みたいところだった.しかし借り出されていたのだから仕方ない.
 ワタシ的には,『リア王』は黒澤明の『乱』で満足していた.中身は『乱』で尽きているような気がした.だからそれほど観たいとは思っていなかった.しかしこの『リア王』を観てみると,当然かも知れないが,『乱』とは違った面白さがある.
 主演のリア王は大御所のマイケル・ホーダーンで,同シリーズの『テンペスト』では主役のプロスペローを演じた.重要な作品だけあって他の役も名のある俳優さんが演じている.

 観ながら最初に,『リア王』の時代設定が不可思議であることが気になった.
 本来なら,この物語はノルマン人の征服以前の出来事のはずである.リア王とは『ブリタニア列王伝』に記された(したがって神話的な)王である.国はブリタニア(ないしアルビオン王国)であって,イングランドではない.ちなみに,この戯曲の中ではキリスト教は出てこない.リアたちが口にする神はギリシャ神話の神である.ところが,DVDの画面では,登場人物の服装はエリザベス朝の服装のように見える(服装は演出家の判断だろう).リアの上の2人の娘(ゴネリルとリーガン)の夫の地位は,それぞれ,オールバニ公とコーンウォール公である.オールバニ公という爵位ができたのは1398年,コーンウォール公は1337年,つまりプランタジネット朝のときにできた爵位である(ちなみにヘンリー八世はコーンウォール公だったらしい).フランス国王やバーガンディ公(ブルゴーニュ公)が出て来るところも,どう見てもプランタジネット朝以後である.
 つまり,この物語はシェイクスピア史劇の期間(プランタジネット朝からチューダー朝)以前に設定されているように見えるが,史劇の期間の出来事のように上演されている,ということなのだろう.芝居であるから構わないのだろう.

 『リア王』は分かりやすい話である.人物の設定が単純に,善玉と悪玉に分かれている.善玉と設定されるのは,リア,末娘のコーディリア,リアの忠臣のケント伯,グロスター伯,グロスター伯の嫡子エドガー,長女ゴネリルの夫オールバニ公,(あえて挙げれば道化)などである.悪玉は長女ゴネリル,次女リーガン,リーガンの夫コーンウォール公,長女配下のオズワルド,ケント伯の庶子エドマンドである.
 しかも,勧善懲悪の要素があるので親しみやすい.悲劇であるから主要な人物の多くが劇中で死んでしまう.死ぬ順番でいうと,善玉ではグロスター伯,コーディリア,そしてリアである.しかし結局,死ぬ人数は悪玉の方が多い.コーンウォール公はグロスター伯の両目をくりぬくときに,グロスター伯の忠臣に斬られ,じきに死んでしまう.使い走りの悪役オズワルドはグロスター伯を殺そうとして逆にエドガーに殺されてしまう.次女リーガンは長女ゴネリルに毒殺され,ゴネリルはその後すぐに自殺する.エドマンドはエドガーに挑まれ討たれて死ぬのである.和訳本(ちくま文庫,松岡和子訳)では,ゴネリルとリーガンの遺体はオールバニ公らの前に運び込まれ,舞台の観客の目にも晒される(DVDではその場面は出なかった).結果として「正義が勝つ」ことが示される.

 この物語をちゃんと読んだことがなかった私は,メインのストーリーと並行して,グロスター伯の庶子エドマンドの陰謀物語が進むことを知らなかった.エドマンドはまず,嫡子エドガーの裏切りをイアーゴーのような手口を使ってグロスター伯に信じ込ませる.エドガーは逃亡を余儀なくされ,エドマンドは伯爵に後継者と認められる.その後にエドマンドは,リア王を助けようとするグロスター伯を裏切ってコーンウォール公に臣従する.さらに,ゴネリルとリーガンに同時に,結婚の約束をする.またリアとコーディリアの殺害を手配し,実際にコーディリアが殺されてしまう.シェイクスピア作品の悪役の中でも大活躍する悪役キャラといってよい.

 この作品の終盤ではコーディリアが率いるフランスの軍勢がドーバー海峡から上陸し,ブリタニア軍と戦う.結果はブリタニア側が勝つのであるが,この展開はかなり危険な展開だと思える.フランス側はコーディリアとリアを擁している.もしフランス側が勝てば,長女と次女はリア王に不忠を働いたから,王位継承権はコーディリアの線に移るだろう.ということは,リアの後にブリタニアの王になるのはコーディリアの夫であるフランス王,ということになる.
 もともと,リアは国の三分の一を,バーガンディ公かフランス王と結婚するだろうコーディリアに与えるつもりだった.その考えの通りにしても問題だった.国の三分の一はフランスかバーガンディ公国の領土になる.三分したことでブリタニアの地で紛争が起きやすくなるし,何かあればフランスかバーガンディが介入しやすくなる.
 つまりは,安定した統治が善とすれば,リア王の考えがどう転んでも愚かだった.国を分与すると言い出したときにケント伯がリアにきつく諌言した(その結果ケント伯は追放される)のはもっともなのである.

 さて,この戯曲は黒澤の『乱』と比べてどうだったか?
 以前観た記憶でいうに過ぎない(あらためて『乱』を観るべきかも知れない).私は『乱』を観て引き込まれたのであるが,『乱』という壮大な作品は,何をテーマとするかが分かりづらい.あえていえば戦乱が人々を不幸にしてゆく,がメッセージだろう.特にあのラストの場面がそう思わせる(とはいいながら,黒澤映画の戦闘場面はいつもながら魅力的である).
 『リア王』の方はもっと単純なのだ.こちらのテーマは「君臣の道」と「既存秩序の維持の重要性」であると私は思う.君主は賢明でなければならず,リア王のような愚かな判断をすべきではない,うわべの追従を見抜かなければならない,というのがメッセージの一方である.他方でこの作品では,私欲を犠牲にする忠臣が賛美される.まるで忠臣蔵である.そして,この作品の結末は「既存秩序の維持」に他ならない.野心家の庶子エドマンドは忠義の嫡子エドガーに討たれるのである.『リア王』の初演の場は宮廷であったようで,どうしてもそのような含意を持つ作品になるのだろう.

 BBCのDVDのケースには「…本戯曲は,人間の身分や地位などが,内面的な悩みの前ではいかに無力かを明らかにする」と書いてある.が,この書き方は混乱した文学者によくある思い込みに過ぎないだろう.素直に観ればこの作品は単純に「君臣の道」を示し,忠臣蔵のように,無心の忠義の美しさを描いた,と私は思う.創作当時の人々は今日の評論家のようなひねくれた考えを持つ訳がなく,屈折したジェンダー論者でもない.

by larghetto7 | 2018-10-04 14:35 | 日記風 | Comments(0)