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2018/06/29 金曜 芸がなかった国大協
芸がなかった国大協

by larghetto7 | 2018-06-29 23:45 | 日記風 | Comments(0)
2018/06/24 日曜 シェイクスピア『じゃじゃ馬ならし』
 県立図書館で借りてきたBBCのシェイクスピアのシリーズのDVDで『じゃじゃ馬ならし』を観た.この作品は知名度があり,私でも題名は知っている.ただ例によって私は筋を知らない.分からぬままにDVDを観てみた.
 観てみて気づいたが,この作品は今日的な価値観とは合わない面がある.今日的には極めて女性差別的,と思われて不思議はない.この作品は今日も,日本でも,しばしば上演されるはずであるが,どのような扱いをされているか,やや興味を覚える.
 舞台はイタリアのパデュア(パドヴァ)に設定される.イタリアでは2番目に古い大学がある街だそうで,学都である.登場人物は,イングランドであればジェントリー層に属するような富裕層の人々,およびその従者である.パデュアのバプティスタには2人の娘がいる.姉のキャタリーナはじゃじゃ馬,というか口汚く人を罵り手に負えない.妹のビアンカは気立ての優しい女性である.その妹には求婚者が群がり,姉のキャタリーナは敬遠される.ここにキャタリーナに求婚するペトルーチオという男が現れる,という話である.ペトル―チオは求婚したキャタリーナをかなり乱暴に扱い,最後は飼いならす.その過程は今日的には人権侵害のように見える.だから,この物語はフェミニストはもちろん,現代の進歩的なミドルクラス文化,ないし「進歩的知識人」の感覚からは,受け入れ難いだろう.
 ネットで調べてみたが,案の定この点はこの作品の問題であったらしく,いろんな演出家が,この作品は女性差別的では実はないんだ,という趣旨の演出をしてきたらしい.私が観たBBCの作品では,演出のジョナサン・ミラーが,素直な解釈で,女性差別的な内容をそのまま実演させている.
 ただまあ,ここは文化的相対主義の立場に立ち,今日的には女性差別的な作品を,そのまま受け入れるべきであろうと私は感じる.シェイクスピアのような偉大な作家は今日的な観念と一致せねばならない,と思い込むのが無理である.
 面白いと思うのは,この作品は通常の恋愛物語とは別の視覚で恋愛を眺めていることである.ビアンカに惚れる男たちは一目見て,それ以上を考えずにビアンカに恋愛感情を抱く.ビアンカは天使だと信じ込む.同時に,キャタリーナは悪魔だといって憚らない.それが恋愛が始まった時の状況である.しかしこの姉妹がそれぞれの配偶者を得て結婚が成立した後の時点では,じゃじゃ馬だったキャタリーナが飼いならされて賢夫人に収まり,むしろビアンカが反抗的な女であると分かって配偶者の失望を生むのである.通常,恋愛物語は配偶者選択が決まるところで終わり,その結末がすべてである.が,物事にはその先があるよ,というのがこの芝居の妙だろう.結婚した後を評価時点とすれば,むしろ悪魔のキャタリーナを妻にしたペトル―チオが勝利者になるのである.

 結婚式が済んで一同が食事のテーブルを囲み,そこでペトル―チオの勝利が宣言される.その後で一同が詩編128を歌って幕が下りる.その詩編128の訳をネットで探すと次のごとくである.

1 すべて主をおそれ、主の道に歩む者はさいわいである。
2 あなたは自分の手の勤労の実を食べ、幸福で、かつ安らかであろう。
3 あなたの妻は家の奥にいて多くの実を結ぶぶどうの木のようであり、あなたの子供たちは食卓を囲んでオリブの若木のようである。
4 見よ、主をおそれる人は、このように祝福を得る。
5 主はシオンからあなたを祝福されるように。あなたは世にあるかぎりエルサレムの繁栄を見、
6 またあなたの子らの子を見るであろう。どうぞ、イスラエルの上に平安があるように。

 だから,この作品のテーマは家庭の幸福なのだ.
 この詩編128は女性差別をテーマにする訳ではないが,上記3に見える妻の姿は家父長制的な家族における妻の姿であろう.でも,キリスト教は家父長制の世界を背景にした宗教であり,そのキリスト教を基盤とする当時のヨーロッパは,少なくとも上層では,家父長制が基準だったのだろう.そういうものだったのである.妻たちに「男と戦え,文化大革命だ」と叫ぶこともできようが,家父長的な環境に順応して秩序を維持することが平和であれば,それはそれでよいではないか.

by larghetto7 | 2018-06-24 17:36 | 日記風 | Comments(0)
2018/06/23 土曜 北海道3国立大の統合
北海道3国立大の統合

by larghetto7 | 2018-06-23 22:01 | 日記風 | Comments(0)
2018/06/22 金曜 聖地巡礼の新宿御苑
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 本日,カミさんと一緒に新宿御苑に出かけた.
 本来なら水族館に行きたい所であるが,問題がある.私は猫の介護を抱えていて,朝晩,病気猫に投薬やら強制給餌をしないといけない.だから朝晩,時間がかかるのである.そんな訳で,行き帰りに時間がかからない範囲の所しか,今は行けない.そして,水族館については,私の住所から簡単に行けるところは,サンシャイン水族館を除いて,行き尽くしたのである.
 そうなると,まあ,行くのはどこでもよいのではないか,という考えになる.じゃ,庭園にでもしようか,という話になった.調べてみると東京には名のある庭園が多い.
 リストアップした中で新宿御苑がよいとカミさんがいった.行ったことがないかららしい.私は学生の頃に行ったことはあるが,その後,行っていない.そこで,まあ今の住所から簡単に行けるし,まず新宿御苑にしよう,ということになった.天気予報を調べ,雨にはならない本日に決めたのである.

 新宿御苑というと別の考慮もある.アニメに『言の葉の庭』という作品がある.この物語は,タカオとユキノの美しい恋物語なのであるが,ストーリー以上に画面が美しい.そして,二人が顔を合わせる場所が,今頃の季節の,雨の新宿御苑のなのである.あのアニメを見て,新宿御苑を訪れたいという気持ちになった面もある.
 アニメが雨なら雨の日でもいいじゃないかとカミさんはいうが,広い敷地内を雨の中を歩くもの辛かろうと思い,晴れの日を選んだ.

 庭園は春もよいし秋もよいかも知れない.が,私はこの季節が一番好きである.庭は様々な濃淡の緑に覆われる.その濃淡が遠近法の中にちりばめられ,不思議と調和して配列される.それが美しいのである.

 大木戸門から入って,大温室を皮切りにそれなりに見て回った.見回りながらどうしても,タカオとユキノが出会う東屋を探してしまう.まずアニメにも出てきた特徴的なNTTドコモ代々木ビル,というのに気づく.上の池あたりに東屋がある.その場所かな,という気がして行ってみた.その東屋には中国人(だと思う)の若い女性5名がおり,写真を自撮りしながらにぎやかにしている.その一行は秦基博が歌う例のアニメの主題歌を,大きな音でかけている.中国人なのにわざわざ新宿御苑で賑やかにアニメの聖地巡礼をしているんだ,と感じいった.その一行は,その東屋がアニメの東屋だと信じたのだろう.だから私もそう思って納得した.
 上の池から千駄ヶ谷門の方に行ったところに台湾風の建物の休息所(旧御涼亭)がある.その近くに東屋を見かけた.行ってみた.その場所はアニメの場所ではないだろう,と思った.東屋の真ん中に移動できない大きな喫煙灰皿ボックスが据え付けられているからである.が,その東屋に日本人(だと思う)の若い女性が一人やってきて,盛んに,しかしおとなしそうに写真を撮っていた.この人も聖地巡礼をしているんだろうな,とすぐに思った.
 家に帰ってネットを調べた.新宿御苑でアニメの場所を調べたサイトが出てきた.結論からいうと,灰皿ボックスが置いてあった方の東屋が正解らしい.事前に調べておくべきだった.

by larghetto7 | 2018-06-22 23:18 | 日記風 | Comments(0)
2018/06/17 日曜 シェイクスピア『間違いの喜劇』
 例によって県立図書館でBBCのシェイクスピアのシリーズを借りてきた.返却期限が近づいたので急いで観た.『間違いの喜劇』という作品である.
 『間違いの喜劇』は題として変だな,という気もした.が,原題が The Comedy of Errors なので,他の訳はないだろう.例によって私はこのような題の劇があることを認識していなかった.しかし我が国でも小栗旬主演で芝居になっているようで,ちょっと詳しい人なら知っているのだろう.
 時間にすると1時間50分ほどで,BBCのシリーズの中でも短い部類である.
 舞台は,現在はトルコに属するエフェサスという地中海の港町である.もともとギリシャの都市という位置づけだったらしい.話は,そのエフェサスにアンティフォラスとその従者のドローミオがやって来るけれど,その2人とそれぞれ双子である,名前も同じアンティフォラスとドローミオという生き別れの兄弟がエフェサスにいて,人違いからドタバタ劇が起きる,という喜劇である.人情喜劇というべきだろう.誰が死ぬ訳でもなく,最後は予想通りのハッピィエンドで終わる.悪代官が出てこない水戸黄門のような話である.
 舞台を地中海に設定しているためか,舞台は色彩的に華やかで美しく,明るい異国趣味を楽しめる舞台だったのだろう.マイム(軽業)の集団が随所で見せ場を作る.その衣装はルネサンスの頃のイタリアのものに似ている気がする.
 同じ喜劇でも『恋の骨折り損』ではおかしさの源泉がセリフにあった.この『間違いの喜劇』はどつき漫才というか,主人と従者のやり取りがたぶん一番おかしなところだろう.身分社会であることを隠さず,アンティフォラスはドローミオをどつくは,どつくは.まあなんというか,昔の関西喜劇の丁稚もの(「番頭はんと丁稚どん」とか,古いけど)のような趣向かなぁ,と思う.

 とりたてて言うべきことはない.あえて気づいた点を書くと:
 繰返しになるが,身分社会であることが,今の視点からは妙に不思議に見える.主人と従者でははっきり境遇が異なる.他のシェイクスピア劇でもそこは同じであり,昔の関西喜劇の丁稚ものでも同じようなものだった.丁稚は丹波の田舎から出てきた貧乏人の子であり,だんさんやとうはんとは身分が違う.関西に限らず,私が子供の頃は世間はそういうものだった.平等になるのは高度経済成長があってからのことである.
 エフェサスの権力者は公爵(Duke)であり,シェイクスピア劇に出て来る権力者の地位の定番である.『夏の夜の夢』でも権力者は公爵様であり,テンペストではプロスペローはミラノ大公だった.当時のエフェサスの君主が公爵という地位だったということはないように思うが(といっても時代が何時かは分からない),公爵というのは,エリザベス期のイングランドでは分かりやすい,親しみやすい君主様だったんだろう.
 イングランド(やスコットランド,アイルランド)を洒落で茶化すセリフが出て来るが,外国を舞台にしたシェイクスピアではよくあることであり,観客を笑わせる趣向だったのだろう.『ハムレット』では,ハムレットが気が狂ってイングランドに行くそうだ,という話になり,ハムレットがなぜイングランドなんだと聞くと,墓堀人夫は「あそこはみんな狂っているから」という.『テンペスト』では,化け物のキャリバンを船乗りだったか道化がイングランドで見世物にしよう,「あそこはそういうのに金を出す」と言う.ちょっとイングランドをからかってみて観客の笑いをとるという自虐ギャグ,ないし観客サーヴィスのひとつなんだろう,という気がする.

 数えてみると,BBCのシリーズ37作のうち,この作品で16作品を観たことになる.まだ半分にも満たないが,ここまで来ると全37作品を観ようという気になって来る.

by larghetto7 | 2018-06-17 15:47 | 日記風 | Comments(0)
2018/06/15 金曜  経団連の提言
経団連の提言

by larghetto7 | 2018-06-15 18:22 | 日記風 | Comments(0)
2018/06/14 木曜 森田童子が亡くなる
 先日,歌手の森田童子が亡くなったというニュースを目にした.それ以来落ち込んでいる.
 亡くなったのは残念であるが,だから落ち込んだという訳ではない.ニュースを目にしてYouTubeを眺めたら,案の定,森田童子の歌がまとまって出ていた.YouTubeで森田童子の歌を再生していたら,暗い歌だから,それで落ち込んでしまった.
 私は若干PLを持っているのであるが,ディスクプレイヤーがないのでずっと聴けないでいた.私はAppleMusicに加入しているけれど,山口百恵同様,Appleでは森田童子は出てこない.
 森田童子の歌は,まるで自分の体験のような気にさせる歌であり,その架空の体験をし続けて落ち込んだのだと思う.
 私が学生の頃,70年代であるが,歌手で根暗の御三家といえば,中島みゆき,山崎ハコ,森田童子だった.何れの歌も暗かったが,暗さの質が御三家で異なる.私には一番しっくりくる暗さが森田童子だった.6畳一間(4畳半よりは豊かだった)のアパートで夜中に酒を飲みながらヘッドフォンで森田童子のLPをかけると,たまりませんなぁ,という気持ちになったものである.
 今さらに思うが,森田童子は女性であることになっているのに,歌の第一人称は「ぼく」である.しかもこの人の歌には女性が出てこない(と思う).チャラチャラした女が出てこないのが良いところだったように思う.
 どれも同じような歌といえるが,「君と涙が乾くまで肩抱き合って寝た」といった歌詞がある.これって,今ならBLですか,そういうことではない(と思う).この歌詞,似たような情景が『伊豆の踊子』にあるのを思い出した.踊子一行と別れて下田から船に乗った後のことであり,小説の最後の,私にはこの小説で一番印象的な場面である.主人公の一高生は孤独なのである.『伊豆の踊子』はなまじ青春映画になっているから,恋愛の話のように思われがちであるけれど,そういう訳ではないだろう.一高生は踊子一行を良い人たちと心底思い,それで分かれてしまった喪失感で泣くのである.森田童子の歌もそういう孤独感の歌であり,孤独は孤独なのであるが,他の根暗歌手のどん底感とは質が違うような気がする.
 安らかに休息されんことをお祈りしたい.

by larghetto7 | 2018-06-14 23:02 | 日記風 | Comments(0)
2018/06/09 土曜 ホームページを縮小的に更新中
 拙のホームページを縮小的に更新しつつある.
 2000年に自分のホームページをniftyのスペースに作ったのである.が,まあよくある話,この10年くらいは放ってあった.2016年にniftyのサーヴィスが変わり,従来のホームページは終了となった.新スペースに移行するかどうかの意向問合せをもらったので,移行する手続きをした.若干の料金も払っている.
 でも,放ったままにしていた.
 ブログもあり,そもそもホームページが必要か,という問題がある.まあ,日々書き込むにはブログがよい.が,ホームページにはホームページの利点もある.書き換えるのはブログがよいが,ホームページは,名刺のような感覚で置いておく,ということであろう.この件に関してはホームページでダウンロードできます,と言えることも利点である.実際にダウンロードする人はいないとしても,言えれば言い訳は立つのである.
 以前のホームページは細かいことを書き過ぎていた.それでは疲れて維持できない.そこで,断捨離で中身を整理し,固定的に載せておくと便利そうな事項に限って残し,余裕があれば更新することにした.
 ずっとftpのソフトを使っていなかった.フリーのWinSCPというソフトを先日インストールして,ftpで転送できるようにした.ホームページのソフトは,今はWixとかいうシステムが普及しているという.が,オンラインで使うような話であり,それだと制約も多いと思えたので,やめた.SourceNextでホームページV4というソフトを有料でオンラインで買っていじってみた.これで行くとプロ仕様のようなファイル構成を作れる.が,旧来のファイル構成(サブフォルダの構成)を生かさないと,書き換えができない.だから使えない.そこで,10年ほど前に買ったソフトを再インストールした.その頃のソフトだから,今ほどはライセンスが厳しくなく,勝手に再インストールできるのである.そもかく,古いソフトを使って,少しずつ整理しつつある.
 以前のホームページ記載を見ると,猫の話など,胸が締め付けられるような記載が結構ある.そういう記載は,個人用に記録はしても,見られる形からは外そうと思う.よそ行きで掲載できることだけにしたい.
 まあ,名刺代わりなのである.


by larghetto7 | 2018-06-09 23:45 | 日記風 | Comments(0)
2018/06/05 火曜 東大も京大も地盤沈下,とか
東大も京大も地盤沈下

by larghetto7 | 2018-06-05 18:56 | 日記風 | Comments(0)
2018/06/02 土曜 シェイクスピア『恋の骨折り損』
 例によってBBCのシリーズで『恋の骨折り損』のDVDを借りてきて,観てみた.喜劇である.
 事前の私の認識は,まあそういう題名のシェイクスピアの作品があったかも知れないなぁ,といった程度である.筋は知らずにDVDを観た.どうせくだらない話だろうと思った.確かに喜劇であるから話はくだらないが,よくできており,思ったより楽しめた.

 今はスペインの領土に属するフランス寄りの場所にナバールという国があった.話はそのナバールの王と3人の朋友貴族の話である.彼らが勉学修行のために3年間禁欲生活をする,女も近づけないと誓うところから始まる.ところがそこでフランスから王女の一行が交渉にやって来る.ナバール側貴族は男4人であるが,フランス側は王女を含めて女4人であり,男4人がそれぞれ別のフランス女に恋をする,という現実にはありそうもない話が展開する.まあ,そこは劇だから.ともかく,男4人は皆,誓いを破る破目になる.そのうえ,すべてにおいて女の方が上手であり,男たちは女たしに翻弄される,という話である.
 ともかく笑える話である.ナバールの男4人(と王の友人のスペイン人アーマード)は,教養があるのであるが,それがやたらと衒学的な,もって回った物言いをし,その滑稽さを女たちや観客が笑う,という趣向になっている.男が女に送る恋文は詩であり,男の方は韻がどうしたなどと論評するのであるが,そこをみんなで笑う.
 ナバール貴族の男らは,ロシア人と称して仮面をつけてフランスの一向の宿舎を訪れる.同じような場面が『ヘンリー八世』にもあったのを思い出す.外国人と称して仮面をつけて訪問することは,エリザベス朝時代に流行った座興だったのかも知れない,と想像した.フランス女の方はその企みを事前に観抜き,ナバール貴族らをからかうのである.
 劇の終盤で,よくあるように,劇中劇が入る.よくあるように,中身は徹底的にふざけており,登場人物と観客が一緒になって笑える場面になっている.
 最終的にはフランス王が亡くなったという報が入り,王女らは1年間の喪に服することになる.フランス王女らはナバール貴族たちには,その間の1年間の試練を与え,ハッピィ―エンドを1年間引き延ばして劇は終了するのである.

 この劇の生命はやはりセリフにあるだろう.もって回った笑い草とはいえ,これほどのセリフは簡単には書けないだろう.特に Mike Gwilym という俳優が演じるナバール貴族ビローンのセリフ回しには圧倒される.

 私程度の歴史の知識ではナバールという国がどういう経過を辿った国かは分からない.私がナバールと聴いてわずかに思い出すのは『王妃マルゴ』という映画である.原作はなんとデュマ・ペールだという.その主人公の王妃マルゴの夫が,ナバール王アンリだった.それでナバールという名を覚えていた.
 マルゴとはマルグリット・ド・ヴァロワ,父親がフランス王アンリ2世,母親があのカトリーヌ・ド・メディシスである.マルゴは3人のフランス王の妹にあたる.そのマルゴを主人公にした『王妃マルゴ』という映画は,宮廷や教会の場面を実に壮麗に描く.反面,ストーリーは陰謀の連続,そして虐殺,毒殺,不貞で出来上がっている.兄のフランス王は毒で全身血にまみれになって死んでゆくし,最後の場面は斬首された愛人の首をマルゴが持ち帰る場面だった.凄惨な映画である.
 このフランス宮廷の陰謀劇の最終的な勝者が,マルゴの夫だったナバール王アンリなのである.ナバール王アンリはフランス王アンリ四世として即位し,ブルボン王朝を開く.
 さて,ということは,この『恋の骨折り損』でフランスの王女に求婚するナバール王とは,そのアンリ4世のことではないか,その王女とは,実はマルゴがモデルではなかったか,という想像に行き着いた.ネットを調べてみると,確かに,『恋の骨折り損』の登場人物は実際の人物と対応しており,ナバール王は後のアンリ四世であると書いてある記載もある.
 アンリ四世がフランス王になったのは1589年というから,イングランドはまさにエリザベス一世の治世の後半である.しかも,『恋の骨折り損』はエリザベス一世の前で演じられたようである.
 そう考えると,この戯曲は,エリザベス一世がフランスに対して優越感を感じられるように作られた戯曲であるのかも知れない,と思えるようになった.私の空想は暴走する.エリザベスは,あの軽薄な男が今のフランス王のアンリ四世なのね,あの王女が淫乱な王妃マルゴなのね,などと話ながらこの劇を観ていたのではないか.
 この劇のメッセージは「男ってバカね」である.それだけでも,エリザベスを喜ばすかも知れない.

 このアンリ四世,マルゴと結婚した時にはプロテスタント(ユグノー)であったが,その時々の都合でカトリックになったりユグノーに戻ったりしていた.それだけ政治的だったのだろう.最終的にどちらだったか分からないが,例のナントの勅令を出してユグノーの権利を守り,新旧キリスト教の融和に努めたのがこのアンリ四世である.フランス政治上では名君に入るらしい.
 政治経験では先輩になるエリザベス一世は1603年に亡くなる.アンリ四世はより長生きするが,1610年に狂信的なカトリック信者に暗殺されるという.
 『恋の骨折り損』から王妃マルゴにつながってしまった.『恋の骨折り損』それ自体は馬鹿な話であるが,その背後に凄惨な政治劇があったかも知れない.

by larghetto7 | 2018-06-02 17:38 | 日記風 | Comments(0)