2018/10/16 火曜 シェイクスピア 『尺には尺を』
 県立図書館から借りたBBCのシェイクスピアのDVDシリーズの『尺から尺を』を観た.この作品は「喜劇」に入る.しかしシェイクスピア劇の常として,悲劇になるか喜劇になるかは紙一重の展開の差である.ストーリーそのものはかなり深刻に進む.
 この作品の題名『尺には尺を』(Measure for Measure)の意味が事前に気になった.たぶん目には目を,歯には歯を,tit for tat といった意味であろうと予想した.作品を観たところ,大まかには当たっている.が,正確にはやや異なる.目には目をは結果の公正性を指す.ここで「尺」(measure)とは基準といった意味らしく,「尺には尺を」は新約聖書の表現によるという.つまりあることに基準を適用すれば同じ出来事には同じ基準を適用しろ,という,方法上の公平性を指している.むろん,適用すべき行為が同じであれば,同じ基準を使えば結果の公平性も含意される.

 この作品,たとえていえば「遠山の金さん」,「水戸黄門」,「暴れん坊将軍」のシェイクスピア版だと思えばよい.ウィーンの公爵のヴィンセンシオがお忍びで旅に出ると言い出す.その間の公爵代行にアンジェロを任命するのである.アンジェロは全権を委任される.アンジェロは厳格な人で,19年前から適用がなかった旧法を復活させ,クロ―ディオを,恋人(ジュリエット)を婚前に妊娠させた罪で逮捕し,死刑にしようとする.クローディオの妹で修道女見習のイザベラがアンジェロに,クローディオの命乞いをする.ところがアンジェロはイザベラを見初めてしまい,平たくいうとセックスさせれば兄を死刑にしないでやると持ち掛ける.だから,クローディオに適用した基準をアンジェロにも適用すれば,アンジェロも罪になる,というのが「尺には尺を」なのである.
 で,何が遠山の金さんかというと,旅に出たはずの公爵ヴィンセンシオは実はウィーンに留まり,旅の修道士のふりをして世情を眺めるのである.そして,クローディオの死刑の件でイザベラが悩んでいることを知るという,うま過ぎる展開になる.ヴィンセンシオは修道士を名乗りつつ,イザベラを助け,クローディオが死刑にならないように策をイザベラらに与える.
 最後の場面で公開の場でアンジェロに対するイザベラの訴えがある.話はもっと複雑であるが,簡単にいえば,アンジェロの非難はすべて修道士が仕組んだ悪だくみであり,その修道士を連れて来いということになる.その修道士,実は公爵その人だ,と身分を明かし,ここにすべての悪事は露見して,めでたしの決着になるのである.
 日本の時代劇の遠山の金さんスタイルはどこまで遡るか分からないが,日本の時代劇が始まるずっと前からシェイクスピアがやっていたというのは,感慨深いものがある.
 題名が作品のメッセージである点は分かりやすい.いい方を変えれば,為政者たる者,ダブルスタンダードはダメよ,ということである.

 という物語であるが,中身についてはツッコミどころは多いように思う.だいたい,お忍びで世情を見たいなら何も旅に出たことにする必要はない.遠山の金さんも暴れん坊将軍も,奉行や将軍の代行などは立てないだろう.それに,その代行を選んだおめえには任命責任があるだろう,という話である.人助けをするなら,面倒な芝居など打たずにアンジェロの前に出て決済すれば済む話である.しかもこの審判を,劇を面白くするためとはいえ,公衆の面前でやることもないだろう.アンジェロも結局救われるのであるが,公衆の面前で芝居を打ったものだから,アンジェロの面目は丸潰れではないか.しかも,最後に公爵は自分が助けたイザベラと結婚する,うーん,そりゃないだろう.
 とまあ,ストーリーには納得できない点があるが,そこはシェイクスピア劇の常である.なかなか派手に楽しめる作品だ,とポジティヴに考えるべきなのだろう.
 
 この作品,ウィーンが舞台であるが,特にウィーンらしいところがあるのか,分からない.ウィーンが舞台であるのに人名はイタリアか地中海風である.はっきりいって舞台はどこでも良かったのだろう.

 この作品で同シリーズ37作品中,28作品を私は観たことになる.ここまで来ると早く全37作品を観たい気持ちになる.

by larghetto7 | 2018-10-16 19:01 | 日記風 | Comments(0)
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