2/5 日曜
 自己犠牲の下に他者を利する行為を利他性(altruism)と呼ぶ。利他性については以前、シミュレーションで考察したことがあり、そのときの結論は、社会圏がclosed であることを前提に、利他性が利己主義に優越する、ということだった。極端な言い方をすれば、人は利己主義から利他性に至る、ということである。
 ところが、Social Psychology のテキストによく記述される自己治癒的パーソナリティという話は、この結論からすると気になる存在である。自己治癒的パーソナリティは、楽観的、かつ他者を思いやることで特徴づけられる。自己治癒的というから、要するにこのパーソナリティは適応度(fitness)が高いのだろう。このことから推論すれば、要するに利他的である方が、physical な意味で適応度が高く、子孫を作りやすい、ということになるのであろうか?

BGM → バッハのフルート・ソナタ

 説明としての進化原則についていつも不明と感じるのは、進化原則(fitness が高い遺伝子が優越してくること)以外を導入しないと話が完結しないことである。同じことは「合理性原則(人は効用が高い方を選ぶ)」にもいえるけれど、こちらは何が効用が高いかは常識から分かるので、異論が出にくいように思う。
 例えばこういうこと。男性(オス)は強靭さと引き換えに短命になる(免疫系が弱い)けれど、それでも fitness が高まる、つまり子孫を残しやすいんだ、で説明がなされることがある。この場合、モデルとしては(強靭さ、長寿可能性)という2次元の空間を考え、物理的制約から無差別曲線のような fitness 曲線を考えて、ある点が遺伝的に選択される、という話になるのかも知れない。モデルとしては。しかし(強靭さ、長寿可能性)空間でどのような fitness 曲線が描けるのかは分からないし、さらに選択が生じるためには予算制約式に相当する条件式が必要になるけれど、その辺もなかなかイメージできない。つまりは、進化原則によって説明できたような気がするけれど、合理性原則以上に、「気がする」というだけのはなしなんじゃないのか、という気もする。純粋に生物学的に進化原則を適用する場合は、このような恣意性はないのかもしれないが、その辺が分からない。
 上で(強靭さ、長寿可能性)空間を仮定したけれど、実は長寿可能性自体も選択されたものと考えられないのか、などとも想像してしまう。こういう個体は生きていない方が、遺伝子を受け継いだ個体が生き残りやすい、ということがあれば、むしろ短命が進化的に仕込まれる、ということはないのだろうか? 例えば、人間の場合、自己治癒的パーソナリティの反対、病気になりやすいパーソナリティの場合、このパーソナリティが発現した個体は早めに消えうせるように、進化的に短命が仕組まれる、ということはないのか?
 うーん、何言っているか、わかんねぇ。

 さて、今日は何をしたかというと ―― 何もしていない。実は、起きたら12時を過ぎていた。よく寝たものだ。このところ睡眠時間は足りていると思っていたけれど、まだ眠い。まあ、休日だし、こういうときもなければ持たないよね。
by Larghetto7 | 2006-02-05 03:20 | 日記風 | Comments(0)
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