12/29 木曜  遅まきながら年賀状作成
 本日のテーマは年賀状の作成である。今年はいろんな雑用が「後ろ倒し」になった。しかも終わっていない。もう仕方ないと割り切る。で、作っていなかった年賀状をあわてて作ることにした。
 昨夜、自宅居間のPC(Win 2000)にインストールされている「宛名職人」というソフトをいじってみた。なぜか、イラストが戌年のものが使えない。画像だけならインターネットで拾えばよいか、と思った。しかし探してみると結構、有料になっている。なら、同じソフトの今年版を買った方がよい、と踏んで、安売りソフトの Sourcenext のサイトでダウンロード版を買ってダウンロードした。インストールするときにユーザー登録というのがあり、登録しようとする。すると、メールアドレスと何かが同じのがある、といって先に進めない。そりゃ、私が先に登録したんだよといいたいが、相手は受け付けない。こういうの、よくある。以前の登録情報は、記録したものもあるだろうけれど、ないのもあり、あっても探すのが手間がかかり過ぎる。確か Borland の Delphi も、同じような理由で、正規に買っているのに登録できない、ということがあった。われわれはあんたんところのソフトだけ買うわけではないから、そんなに登録情報まで覚えていられないよ、といいたいが、どうしようもない。
 ともかく、新しい宛名職人をインストールし、住所録データを読み込んで整理したのが昨晩である。
 今日、起きたのは9時頃だった。まだ眠い。よく晴れている。外に出ると猫たちが寄ってきた。
 して、年賀状作成にかかるも、時間かかるわな。

 ネットのニュースを見ると(最近はテレビを見なくなった)、文科省が論文捏造のペナルティを作る、といっている。今までなかったのか? 
 私が院生だった頃、一緒の仕事をしていた理系の院生が、データの捏造なんて普通のことですよ、といっていた。注目される結果なら追試をされるから、捏造ができるかどうか、疑問もある。注目されない結果であれば可能なのかも知れない。
 社会心理学の場合、実験データの捏造は可能なのかどうか、ということを考えてしまう。注目される結果では追試があるのが普通だ。しかし、歴史的に重要な実験結果について、後の追試では「その通り」であった結果も、そうでなかった結果も出てくるのも普通だ。だから、分からないで終わりにできる余地はあるのかも知れない。
 何というか、ある研究室でやった実験でないと再現されない実験結果というのもある。その場合、実験手続きが、論文に書いてあるだけでは再現されない、ということだろう。そういう微妙なところが重要な実験結果があると、それはそれで追試を累積させて新たなことが分かるともいえるのだろうが、効果自体が robust でないことに労力を払うことの馬鹿馬鹿しさ、ということの方が重要かもね。

 さて、年賀状を書く態勢になったけれども、いざ書こうとすると言葉につまる。何か一言書くのであるが、何を書くかでいろいろと考えてしまう。こういう点が私の、要領が悪いところだろう。もらう年賀状など、大したことは書いていない。が、できれば心に残る一言を書こう、などと余計なことを考えてしまう。
 何を書けば心に残るのか?
 年賀状の書き込みでよくあるパタンは、くどくどと自慢話を書くことである。そういう年賀状は目にするたびに不快を催す。ただ、この点は自慢することがない私のひがみかも知れない。
 自慢話を書くことは、社会心理学的には印象管理としての自己高揚である。過去の知見からするとこういうパタンに臆面もなく従うことで、実際に得をするらしい。だからやれればやるべきなのだろうが、恥ずかしくてやる気がしないのは極めて日本的感性を持つ私の本質かも知れない。
 理論的には、自慢話のような positive な内容は、記憶には残り難い。人は、何らかの意味で negative な情報の方に注目するからである。単に negative というだけではまだ弱いかも知れない。最も記憶に残りやすい条件は何かと考えると、その人に適用されるスキーマから外れることを書くということだろう。単に外れるだけではかえって把持されにくいはずであるが、例外的な印象を与えれば記憶に残りやすい。
 そう考えると、一番印象に残る年賀状の文面とは次のようなものではないか?

 あけまして おめでとうございます。
 本年が○○先生とご家族様に最良の年でありますことを
 お祈り申し上げます。
 ところで私、今、人を殺してしまいました。

絶対、記憶に残るよね。

今日買ったCD → パリは燃えているか
by Larghetto7 | 2005-12-29 11:11 | 日記風