2014/09/20 土曜 能登の白クマうらみのはり手

 ネットを眺めていたらどこかで「やまがみたつひこ」の名前が出てきた。昔、私が学生だった頃、『ガキでか』というコミックを書いていて人気があった漫画作家である。今は小説家になっているらしい。『ガキでか』は部数の多い少年コミック誌に載っていた作品であるので、それほど過激ではなかった。しかし単発もので出ていた作品は過激であり、ほとんど発禁書のような扱いではなかったかと思う。やまがみたつひこの短編で私が今も題名を覚えているのは「能登の白クマうらみのはり手」である。どこかで売っていないかと検索をかけたら、Amazon でちゃんと売っていた。ためらいながらも注文した。2日後に届いた。
 この「能登の白クマうらみのはり手」はやまがみたつひこの名作の1つのはずである。この漫画を、院生の頃、SSM調査(SMとは関係ない)の合宿に狩り出されたときにそこで読んだと記憶している。むろん、記憶違いということもあるかも知れない。題名を今も覚えているし、ストーリーもほぼ正確に覚えている。
 覚えているにはそれなりの訳がある。

 まずこの漫画は、中身を読まずとも、題名だけで十分観賞に耐える、と思っている。題名がすごい。そのココロは次のごとくである。
 第1に、「能登の白クマうらみのはり手」という題名は、長い割になぜか覚えやすい、と感じる人が多いのではないかと思う。なぜか? この題名は、「能登の白クマ」と「うらみのはり手」という、7音の修飾語付きの名詞から成り立っている。77調である。音的にこの形式の題名は古典芸能の演目にもよくある。「菅原伝授手習鑑」(すがわら でんじゅ てならい かがみ)や「三人吉三廓初買」(さんにん きちさ くるわの はつがい)などである。後の世では、「四畳半襖の下張」(よじょうはん ふすまのしたばり)などもそのヴァリエーションといってよい。要するに日本語のリズム感からは覚えやすいのである。
 内容からいえば、題名は「白クマうらみのはり手」で十分である。勝手な想像であるが、作者は、しかしそれでは何か足りないと感じ、推敲の末、上に3文字を加えたのであろう。
 第2に、この題名には「うらみのはり手」という、強烈で視覚的にも明確な言葉を含んでいる。アピール力が高いのである。
 第3に、白眉というべきは「能登の白クマ」、つまり「能登」と「白クマ」のコンビネーションである。推敲の末行きついたのか、天才的なひらめきで決めたのかは分からない。なぜすごいのか? 「北極の白クマ」では当たり前過ぎて言ってもはじまらない。「サハラの白クマ」では2つのコンセプトが離れすぎていて、記憶に残らない。「能登」と「白クマ」は、普通は結びつかない2つの概念であるが、まったく関係しないとは言い切れない微妙な関係にある。もしかしたら関係があるのかも知れない、ではどういう関係か、という自動思考が見る者の中で生じた時、見る者は既にして、この作品を無意識のうちに(正確には閾下で)注目することになるのである。
 この作品の舞台は東京と金沢である。金沢は加賀であって能登ではない。だから、この作品のどこにも、能登は出てこないのである。そもそも白クマは東京の動物園の白クマなのだ。
 つまりこの題名は、作品から派生しながら、作品そのものを表すのではなく、別個の構成体と言うべきだろう。むろん作品そのものを表していないところが、やまっがみたつひこらしい飛躍と考えてもよいかも知れない。

 この漫画のストーリーは、むろんここでは書かない。漫画は漫画として、そのコマ割を見ながら判断すべきものである。
 余計な論評をするなら、やまがみたつひこの作品は純粋形式のギャグであり、そこに人間としての愛おしさとか、人間性とか、友情のような貴ぶべき価値は一切登場しない。登場するのは内面的にも外見的にも醜悪な主人公たちであり、彼らはこの上なく下品であり、人としてもつべき美点は何もなく、良心からの拘束を何も受けず、ただ衝動的に、しかも短絡的に行動する。やまがみたつひこの作品はこの原則をストイックなまでに突き詰める実験のようなものであり、その純粋さを称賛するのがやまがみたつひこのファンなのだろう。
 久しぶりにいくつかの作品を見ながら感慨を覚えることがある。今日の基準では「差別」などといって書けないことを平気で書いていることである。同じことは「いしいひさいち」にも言える。当時、これらの作品は教科書とか朝日新聞などのメインストリームの権力に掲載されることはなく、ただひたすら思うままに作品を作っていたように、今からは思える。当時の社会状況が一瞬、表現の自由を許す時代を出現させたんだろうな、などとふと考えた。


by larghetto7 | 2014-09-20 19:31 | 日記風 | Comments(0)
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