10/29 卒論・修論の2ヶ月
 今年は私は雑用で忙しい。ところがなんのめぐり合わせか、卒論と修論で指導すべき学生も多い。修論の方が3人。卒論の方はちゃんと数えていなかったが、今数えると18人いる。卒論の18人という数字は、私大の場合を考えればさほど多い訳でもないと思う。が、この学部では、4年生全体の1割程度である。
 例年のことであるけれど、問題は進捗状況が悪いことである。卒論の方でいうと、たぶん期限内に完成できそうなのが8名、あとの10名は何とも言えない。10名の中には今の段階でテーマがハッキリしない人もいる。
 夏休みの前に何度も伝えていたことであるが、調査データで書く予定にした人は、書けると思う数に入れている。データがあれば、まあ、分析することは決まっている。結果を書いてゆけば、良い卒論かどうかはともかく、自ずと体裁が整うものである。同じことは自前でデータを確保している何人かの4年生についても言える。
 修論の3人についても、相当難しい。

 なぜこうもうまく行かないのか、と言い出すと私の立場からの愚痴になる。
 考えてみると仕方ないのだ。卒論や修論が書けるような教育をしていない、というだけのことである。「課程」としての coherence がない。学生さんが「いろんなことをつまみ食い」する状態にあるから、一定の課程の持つパラダイムのようなものが伝わらない。
 現社の場合、少なからぬ先生方は、「私の下で卒論を書くなら」という前提で、学生に事前に特定の授業に出ることを求める。ただ、このやり方をすると、どこからもはじき出される学生が出現する。そういう学生を拾っているのが現社の場合、私や深澤先生、といえるかも知れない。
 もっとも私の場合、私の授業の全てに出ても、私が要求するパラダイムは身に付かない。私がやる程度の授業では少な過ぎる。この点は本質的な問題である。
 結果として、何が身につかないのか?
 いろいろあるだろうが、一番大きいのは「ストーリーを作る」能力である。論文を書くためには、領域ごとの「ストーリー作成能力」が必要であるが、情けないことに、そいつを身につけるだけの授業を提供できていない、ということである。
 例えばある院生の方は、planning fallacy が進化する、というストーリーを作ってシミュレーションをやるはずだった。が、先日、修論の題目として出て来たのは「楽観的認知のシミュレーション」という話だった。一体ストーリーはどうなるか?
 planning fallacy であれば、事実がどうであるかは別途評価する必要があるけれど、「一般に planning fallacy はある」という前提で議論することが出来る。あるはずの planning fallacy がどのような前提で出現(進化)するか、どのような条件が必要か(この場合、形式的には十分条件の検索になる)、をモデルとして検討する、というストーリーを描ける。しかし単に「楽観的/悲観的認知」となると、世の中に楽観的な人も悲観的な人もいるのは当たり前だから、どんな結果が出ても、そこから先のストーリー展開は無理のように思う。楽観的な人も悲観的な人も出ます、というシミュレーション結果が出れば、そりゃそうでしょう、So what? で終わってしまう。楽観的な人しか出ないという結果が出れば、そりゃ変なシミュレーションをやっただけでしょう、で終わってしまう。
 別の院生の方から、リバウンド効果(偏見を持つなといわれるとかえって偏見が強くなる、など)が、集団的に偏見を持つのを止めようと話し合って合意すれば、出ない、という実験を考えていると私は言われた。返答に困った。そりゃ、話し合って合意すれば被験者は偏見を抑制する訳であるから、測定すれば偏見は出ないかもしれないけれど、その結果を出して何を言うのだろう? というのが素直な疑問である。その話し合いで偏見を抑制できれば、話し合ったんだからそりゃ出ないでしょう、で終わるし、逆にその合意が弱ければやはり偏見は出る。どんな結果が出ても、意味がないように思う。やはりストーリー展開の面で行き詰るように思う。
 段々と時間がなくなって行く。卒論・修論を出すのは1月早々である。厳しい2ヶ月間が、今始まろうとしている。私にとってもこの2ヶ月間は、某業務で忙しい。
 
by Larghetto7 | 2005-10-29 02:50 | 日記風