9/28 毛沢東
 昨日から本日(夜中)にかけ、職場系のメールでいくぶんにぎわった。本日、某委員会があり、細かい話をしないといけない。10月の高校からの訪問受け入れについても話を詰めないといけない。

 今の学生さん世代は信じられないかも知れないが、高校生の頃、私のかばんの中にはいつも『毛沢東語録』が入っていた。読んでいたとは言わないが、ともかく入っていたのである。私のある友人は完全にノンポリの軟弱男であったが、なぜか『毛沢東語録』をどこかから仕入れ、級友に販売もしくは配布していた。私も1つもらったかも知れない。
 当時は毛沢東は第三世界の輝ける太陽であり、虐げられた人民の希望の星と見られていた。世の中は変わるという信念が広く浸透していた。
 何しろ、高校の私の学年の生徒会長は(たぶん在学中から)赤軍派であり、後にどこかを襲撃して逮捕された。1つ間違うと浅間山荘にいたかも知れない。
 今となっては冗談のような話であるが、当時は旺文社のラジオの受験番組の合間に「北京放送」を聴くのが流行っていた。当然、中国共産党の立場の日本向けラジオである。北京放送は「成田空港における日本人民の闘争」を支持し、日本共産党のことは「日共宮本修正主義裏切り者集団」と罵倒していた。武力闘争路線を放棄した日本共産党は、同時に中国共産党と決別したという歴史がある。ただ、米中国交回復があり、その後に田中首相による日中国交回復があったので、中国にとって一番友好的な政治勢力は自民党田中派、ということになった。中国は今も田中真紀子を歓迎する。首相になる前の中曽根が中国を訪問すると、北京放送は中曽根を「閣下」と呼ぶ。中国共産党は怪しげだなと私がさすがに思い始めたのはその頃である。
 面白いのは、その毛沢東ブームだったときに日本は高度経済成長の只中にあったことである。つまり日本から貧困が消滅し始めた時期だった。その頃、深刻な公害事件があったけれども、客観的には明るい材料の方が多かった。単に所得が増えただけでなく、階層間、地域間、産業間の所得格差は小さくなっていった。
 今考えるとこの状況は何だったんだろうと思うけれども、たぶんもっともな解説がいくつか見つかるものと思う。 

 本日、午前はいつものようにあわただしく家で過ごした。大学の某役員に電話するも、出ない。13時からの某委員会の会議に出るために家を出た。
 大学の事務室の電話で某役員に電話すると通じた。話していていくぶん頭に来た。責任のある仕事の中身を把握していない。13時からの会議には10分ほど遅れて出席した。
 13時からの会議は3時間半ほどで終わる。時間がかかったけれど、協議する事項が多いのだから仕方がない。付随する事項の段取りも進めた。
 実験室に院生さんがいたけれど、修論の競技をする時間もないので今日は私が早めに帰ることにした。
 帰りがけに携帯で家に電話すると、先日骨折して動物病院に入院させた猫の黒子の手術を夕方にするという電話があった、という。帰宅した頃には暗くなっていた。
by Larghetto7 | 2005-09-28 02:18 | 日記風