私の中には1つの信仰のようなものがある。世界は単純な原則でできているだろう、ということである。だから理屈が複雑になるにつれて何か間違った方向に行っているのではないか、という考えが思い浮かぶ。実は今日(というか昨日)、私が出ていたセッションは集団に関するもので、話が複雑になっているものが多かった。むろんその評価は報告による。大きな目標に向かっているものは良いのであるが、目標が見えずに複雑化しているものについては、これでよいのかどうかと考え込んでしまう。
同じ穴を掘り続けるなら、穴は深くならざるを得ない。でもそれって、意味のあることなのか?
単純なことがやりたい。
さて、中津のホテルについてから夜も更け、家にいるときに比べてやることがなく(そりゃ、ここには猫がいないし雑用も解除だ)、いつもは見ないテレビをつけた。関西と関東ではチャンネルが違うから、どの番号がどの局かは分からない(一時は分かっていたのだが)。
あちこちを見ているうちに、1つの番組に固定した。館ひろしが出ている。死んだはずの先輩が生きている、というミステリー仕立ての話であったが、その先輩である渡哲也が出る辺りから「そりゃねぇだろう」という展開になる。でも思わず最後まで観てしまった。『祇園囃子』という題であることは終わってから知った。脚本が倉本聡という。死んだはずの男が生きていて日本に戻ってくるというのは昔から結構あった物語のパタンである。とはいえ、泣かせますなぁ。そしてかっこよい男ばかり出ること、出ること。最後は男は去ってゆく、女のもとには来ない、これも決まったパタンですが、そうと分かって去り行く男の後姿が泣いているぜ。
ネタばれなのに泣かせる忠臣蔵のようなものですな。
昨日と同じルートを通るも、甲東園より1つ先の仁川駅で降りて用を足す。
少し時間が余った。17時27分、新大阪発ののぞみのチケットを取っていたけれど、16時16分発に換えてもらう。少し早めに帰路に着いた。