昨夜、というか今朝は寝たのが遅かった。なのに早く起きてしまった。家猫のチーコが外の猫とガラス戸越しに喧嘩してギャーギャーいうのでおきてしまった。チーコが反応したのは小黒(コクロ)という子猫である。その後に別のガラス戸越しに、チーコが小白(コシロ)という子猫に吠えかかる。小白の親の白が出てきてチーコを外から威嚇したらしい。さすが親子である。いいとこあるではないか。
何をする必要があるかとノートにリストを書いてみると、事項の数が多い。やる気が失せてくる。何もせずにタバコを買いに出た。帰ってからうどんを食べた。
とある社会学者の論文に(確か AJS の 1988 辺り)、セクト、カルトの出現を説明したモデルがあった。このモデルはよく出来ていたので、時折授業で取り上げたことがある(といっても、そういう内容を出せるのは基礎演習くらいである)。「宗教心」における人々の分布が一定としたとき、社会全体の行動基準が世俗的になると、極端に宗教的なセクトが出現しやすくなる、とこのモデルは予測する(セクトとカルトは異なるけれども、カルトを含むと見るべきだろう)。
このモデルが直接想定するのは今日的なカルト状況だと思うけれども、実はイエスの集団も同じような状況で出現したのではないか、と想像することがある。
イエスの時代、ユダヤの王だったのはヘロデであるけれど、ヘロデ王の親父もヘロデ王といったらしい。何れも家族を殺し乱脈な相関図を作った人たちである。サロメもその中の話の1つである。
ヘロデの時代、ユダヤはローマ帝国の属国になっており、総督のピラトが権限を担っていた。イエスの磔刑を許したのもピラトである。要するに当時のユダヤはローマ帝国の域内にあり、結構栄えていたかも知れない。以前、そのヘロデが作ったという海岸沿いの遺跡を見に行ったことがある。港に隣接して広大な遊興施設を要する遺跡で、ローマ的、という感じがした。
実はそういう時代背景の中で、対極のようなイエスの集団が現れたのだろう。そういうと怒られるだろうが、バブル期にオウム真理教が生まれたようなものかも知れない。
聖書の物語では、奢侈に浮かれているところで預言者が出る、という話がよくあるような気がする。ローマでキリスト教が広がるときも、状況は似ていたかも知れない。
この辺の歴史的経過は字面で追うだけで、どうもピンと来ない。しかもそのキリスト教が、ある時点で突然、支配的な宗教になってしまうのである。なんでよ、と不思議に思う。
今日は実は、某事項に関する意見を文書にしてどこぞに送った。その文書を書くのに時間を使ってしまった。そんなことしている場合ではないんですが。ただ、記憶があるうちに処理したいと思った。
福島県会津のある高校の父兄・教師が団体で10月13日に見学に来るというので、見学授業の手配を頼むという依頼が入った。こいつは広報の仕事なので私の範囲なのですよ。
埼玉大学の中でも、学部によって客層が若干異なるのです。ウチの学部は「埼玉依存率」が割と低く、主たる客層は東北新幹線、上越新幹線沿いなのです。今のところ新幹線はみんな、大宮に停車するので。九州や北海道の人も結構いるのですが、今年の4年生については、東北が目立ちます。(実は私、福島より北はあまり行ったことないのですが。)