amazon.com から、注文したマンガ『嫌韓流』が届き、すぐに読んでみた。書いてあること自体は、まあそんなものだろう、という気がする。「2年間出版できなかった」というけれど、なぜそれほど抵抗があったのか、理解し難い。
ただ、小林よしのりの『戦争論』よりはだいぶ落ちるような気がする。なぜそう思うのか?
第1に、小林よしのりが絶えず自分が何ものかを語りながら『戦争論』を著したのに比べると、『嫌韓流』の場合、著者が何者かが見えない。ちょうど、小林の批判者(の多く)がこの前までマルクス主義者であったことすら隠しながら小林を批評するのと似ている。それでは薄っぺらな存在にしか映らない。
第2に、小林よしのりが展開したのは、ある意味古くからある大東亜戦争肯定論、つまりは自国の歴史と名誉の弁護である。少なくとも主眼は自国の弁護にある。しかし『嫌韓流』の方は他国批判が表に出るから、どことなく後味の悪さが残る。
第3に、『戦争論』には「公と私」という「理論」が背後にあった。だから全編が理屈に満ちている。議論の適用範囲は日本には限らない。『嫌韓流』には同じだけの理屈はない分、話が狭い範囲で終わる。
とまあ、印象としてはこんなことが言えるかも知れないけれど、話題になっているから、何事も読んでみる価値はあると思う。
そういえば、という話である。私の師匠にあたる先生は十数年前に亡くなった。が、奥さんはご存命である。少なくとも最近まで、視覚障害者のための朗読(録音)やら、エルダー組織経由の外国からの観光客への英語のガイドを、ヴォランティアでされている(某NPOの理事をされている)。その奥さんから次のようなことを伺った。日本の一流の古美術を展示しているところにたぶん韓国からのツアーが来て、そのガイドがすべての展示物について、これは日本が韓国から盗んできたものだ、これは韓国のものを真似たものだ、と説明しているという。なぜ傍にいる人は何もいわずに、そのまま放置しているのか、と怒っておられた。『嫌韓流』に書いてあったことと妙に符合する。
放っておく他なかろうけれども、えらく下品な話である。
本日、午前から卒論の会合があり、午後は補講をする予定。